(つづき)
先に誤解なきよう断っておくと、私は社会主義者ではありませんし、ここで資本主義や自由主義そのものを否定するような話を始めるつもりもありません。ただ、厳然たる事実と構造を、記述しているだけです。
「キャッシュフローベースで賃金が決まる」とはどういうことか。
簡単にいうと、「どれだけのカネを生み出せるか」という事実と相関・連動して、報酬(賃金)が決まるということです。
資産の運用をする仕事をしていて、10億円のものを12億円にした、つまり2億円のキャッシュ(カネ)を生み出した人に、その〇%の報酬を渡す、ということは、少なくともその場面だけを見れば、理屈的にも感覚的にも、公平なシステムのように思えます。
ほぼ一人で2億円を生み出す仕事をしてくれた人に、月給40万円しか払わないということがあったら、一般論的に考えても、なんだか公正ではないように思えます。
原価がかかるビジネスであっても、appleなどのように、強力なブランドや製品を持っている企業、つまり、それがどうしても欲しい、というファンを持っているビジネスは、粗利益率を高く設定することができます。結果、多くのキャッシュフローを生み出します。
会社としてキャッシュフローを生む力があれば、それは社員に還元することができます。もし仮に、その社員の中に、たいして仕事をしていない人がいたとしても、会社全体として充分なキャッシュフローを稼ぎ出していれば、ほかの社員と同様に、高い賃金を支払うことはできるのです。
これが、「キャッシュフローベースで賃金が決まる」というミクロな経済原理の話です。
ひるがえって、エッセンシャルワーカーという仕事が生み出すキャッシュフロー(カネの流れ)は、どのくらいか。
エッセンシャル(生活必需)なので、一件一件の取引が高額になることは、通常ありえません。
しかもたいていの場合、何かしらの原価がかかります。そして多くの場合、肉体を使うことで価値を提供する、という形態が必要となります。
消費者に直接価値が届く行為に携わるから、エッセンシャルなのです。(医療福祉・介護は医療や介護の行為がなされなければ、ごみは物理的に回収されなければ、apple製品やベンツは顧客の手に渡らなければ、価値はゼロです。)
そのように、肉体的、時間的、地理的、物理的な制約が、必ずついてまわります。これらはすべて、「効率性の制約」という意味で、利益率を押し下げる意味を持ちます(こういう制約を持たないビジネスが今どきの「勝ちモデル」なので、それと比べると、相対的に「勝てないモデル」となっているのです)。利益率は、どうしても一定以上にはならないという構造があります。
つまり構造的に、大きなキャッシュフローを生み出す仕事ではない。エッセンシャルであるがゆえにむしろ、生み出しすぎてはいけない仕事です。
単純に事実として、こういう構造になっているから、「最初にどんな職業を選んだか」という事実によって、経済格差が開いていくのは理屈として当然、という側面があります。
そしてエッセンシャルワーカーの立場を弱める「さらに重大な」もうひとつの要素があって、
それは
「カネを多く稼げる者が強者であり、勝者であり、社会的地位が高いということだ」
というアンコンシャス・バイアス(無意識のレベルでの社会的偏見)が、どれだけ時代が変わってきているとはいっても、やはり依然として社会に根強くはびこっている、ということです。
このことの意味や構造について話し出すとさらに大きな話になってしまい、それはさすがにここでの論旨から外れていくので、今は深入りしません(議論する意味は大ありだと思っていますが)。
ここで説明したかったのは、エッセンシャルワーカーの待遇や立場に関わる問題は、「経済(資本)」の論理をもって、「社会」の中に構造的に固定化されてしまっている、ということです。
しかし奇(く)しくも、コロナ禍という社会の危機において、
今まで見えなかった、見ようと意識したこともなかったことが、ニュースや新聞、ネット上で、言説(げんせつ:語られたこと、語られていること)となった。
これによって、少し意識が変わった。ものの見方や考え方が変わった。という人が、ある一定以上の人数、いたように思います。これは、コロナ禍がもたらした、社会の良い変化のひとつだったんじゃないかと思うのです。
(つづく)
ความคิดเห็น