(つづき)
子どもは学校で、社会科見学とかにいくと思います。同じです。大人になっても、みんなが社会科見学できる種は、あればあるだけいいんじゃないか、と考えています。
もちろん物理的、時間的制約上、実際に見学に行くことは難しくとも、大人は言語を用いて理解するということができます。文字であれ、会話であれ。むしろ大人になってからのほうが、確実に理解は深くできるし、広い視野を持つきっかけにもなると思います。
従来、日本では、自分の主張をすること…自分がやってることのアピールだとか、そのために大変な思いをしているだとかみたいな話をするのは、浅ましい、みっともない、傲岸不遜、みたいな空気感がありますが、それは必ずしもそうではないんじゃないかと思っています。
日本の道徳的な価値観としての謙虚さというものは失わないとして、不必要な謙遜(=卑下)は、やりすぎるべきではないとも思います。
みんながみんな、それぞれの、お互いの仕事に、敬意を評することができる。敬意を評せるだけの、基本的な一般教養としての知識を持っている。
という社会は、あるべき形なのではないか、と考えたのです。エッセンシャルワーカー問題から。もちろん、全ての仕事を知るなどということは、物理的には不可能ですが。
「敬意」という言葉は、日本語では重く響いてしまうので、そんなときに、もう少しライトなニュアンスというか、相手の立場を尊重しています、的な、日常的文脈で使える言葉として、英語の”respect”(レスペクト)という言葉が、日本でも最近よく使われるようになってきました。
あんまり使いすぎても、無駄に英語とか使いたがる意識高い系?とか思われるリスクもあるかもしれませんが(笑)、そういうニュアンス的な意味合いで“レスペクト”は使いやすく拡がった言葉なんだと思います。
ですので、ここでの結論としては、
みんなあらゆる職業の人が、自分の仕事や業界のこと、その価値や、素晴らしいこと、大変なこと、あるいは問題なこと、を語ること、というのがもっと気軽にできたほうがよくて、
みんなあらゆる職業の人が、互いに関心を持つこと、きっかけがあって自分に少し時間の余裕があったら知ってみること、ができるようになったら、
もう少し、社会全体の、お互いに対するレスペクトの総量が、増えていくんじゃないか。
そのほうが、スムーズで暮らしやすい社会になるんじゃないか。
そうしたら、
「それなら、自分がここだけちょっとひと手間をいとわなければ、あなたは少し楽になるんでしょ?」
とか、
「そうしてくれるなら、私のほうでも、もう少し融通をきかせた対応ができますよ」
とか、
コミュニケーションも生産的で建設的になるかもしれません。
会社の中での業務の効率や生産性を上げるのも、家庭の中で協力しあうのも、同じじゃありませんか?
それを、社会全体で拡げていけるだけの、心の持ち方…「公共性」の意識が、ますます大事になってくると、思うのです。
だから私は、飲食業界の内実の話も、へええ、そうか、そういう事情があるものなんだ…と知ってくれる人がもしいるなら、知ってもらいたいと思って、情報公開はなるべくしておこう、と考えるようになったのです。
これが、
「飲食業界の裏側や内情を、なるべく、社会に対して、公開していきたい。」
と私が考えるようになった、その理由です。
そしてその前提があって、この先でようやく、
店主は、なぜこのタイミングで、カフェ業態をやろうと考えたのか? とんかつを、再び出す気があるのか?ないのか? 今、何を考えているのか?
という話…内実の話に移ろうと、考えているのです。 Σ(’ロ’;)‼ ココカラ⁉
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