(つづき)
【②一人とはいえ「自分の事業のリーダー」としての説明責任】
ところで…しょっぱなから話が一旦脇にそれますが、「説明責任」という言葉に関して、最初に少し触れておきたいと思います。
この言葉に関連して印象に残っているのが、2021年の東京オリンピックを開催するのか、しないのか、で国中が揺れ、揉めていた、あの頃です。
ワクチンもそろわない中、コロナ感染拡大が大変な状況にあって、緊急事態宣言やらいろいろな行動制限やらが出ている中で、
オリンピックだけは頑として「やる。」「安心、安全な大会運営は、可能。」
政府はただもう、その一点張り。
なぜそこまでしてやるべきなのか、なぜ安全にできると考えるのか、その根拠は、、、
具体的で納得のいくような説明は、ついぞ一切ありませんでした。NHKの国会中継の答弁を私も何度か見ていましたが、どれだけ誰がなんと問い詰めても、質問にまともに応えない。見ていて本当にいらいらしました。
国民の多くが、憤り、幻滅したはずです。「これほどまでに、『説明責任を果たさない』という政府の姿勢が、ありなのか。」と。
実際には、いろいろあったんだろうと思います。一般市井にはわからないような経済的、政治的、立場的、利得利権的な、奥深いやんごとなき事情が。どうしても「キャンセル」にはできないという理由が。
しかしそれがあるならあるで、説明はしてくれ、と。どっちみち納得いかないとしても、せめてそういう立場にある人物として、説明する責任は果たしてくれ、と。
ビジネスの世界ではしばしば使われる「アカウンタビリティ(説明責任)」という言葉を知らなかった人であっても、このときほどその説明責任という「概念」を明瞭、克明に脳裏に生じせしめた事案は、近年かつてなかったのではないでしょうか。
私は思いました。
これは、リーダーの姿ではないと。人の上に立つ者の覚悟ではないと。
私もリーダーではありませんし、人の上に立ってもいませんが、事業をやるということは、自分の事業のリーダーであると、思っています。従業員が一人もいなかったとしても。
だから、ここからは、自分の店に従業員がいるつもりで、従業員にも聞かせるつもりで、そして株主に説明を果たすつもりで、語っていくことになります。
(つづく)
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