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僕はやっぱり、ガストロノミーの世界の料理人(前編)1/3

「ガストロノミー」という言葉を、このお知らせの場で、過去に何度か使ったことがあります。


おそらく世の大半の方には馴染みがないであろうこの単語、意味さえよくわからないであろうこの単語、むしろ一度も聞いたことすらないと思われるこの単語、でも、使わないわけにはいかなかったのです。それだけ、やはり私は今でも、とらわれているのです。意識しないわけにはいかないのです。



自分が修業をしてきた、自分が生き抜いてきた、ガストロノミーという世界のことを。



最終的には、その世界の目指す先に、人類の幸福にとって、地球の幸福にとって、真の意味で価値あるものなどないという自分の確信に至り、自らの足で踏み出ていくことを決意した、その世界。



その虚飾。虚栄。欲望の渦。


俗物。高慢。媚態。好事家。衒学。奢侈。独善。猥雑。


カネ、ステータス、最新のテクノロジー機器などのはりぼてを身にまとった、自らの「万能感」に満ち満ちた人たちの集まる、この上なく下品な高級サロン。



唾棄すべきほどに嫌悪した、その世界。



だから、そんなすべてのものから距離を置く、別の次元の世界の新しい「飲食業」の形として、とんかつカンティーヌの世界を作りました。


「レストラン」ではない。どんな種類、品質の料理を出そうとも、「高級レストラン」然とした空気感は、決してまとわない。


自尊心や虚飾心、虚栄心をくすぐるような要素は、一切取り入れない。そういうものを求めるような人種がいくら来たところで、意図して、そういうサービス(接客)はしない。そういう人たちを喜ばせ、気持ちよくさせるようなサービスの仕方を熟知しているがゆえに、逆に、意図的に、そういったことを一切やらない。


かといって、単なる「定食屋」感でもない。当然「呑みの場」として利用されるのはNG。


それは、「カンティーヌ」という新しい言葉でしか表現できない。そういう空間。そういう想いを込めて、作ったのです。



でも、それでも、やっぱり今でも、常に気にしてしまう。ガストロノミーの世界では、どういう食材を今使っているのか。どういう最新の技術があるのか。世界トップクラスとされているレストランでは、どんな料理を出しているのか。



それは、自分が見切りを付けたはずの世界から、実は見切られていただけだったんじゃないかという、倒錯した恐怖感。劣後感。法外とも言える価格の中で、素材も手間も、ただ究極を追い求めることができることへの、憧れ。そしてもはや自分はそういった世界でそういった料理を作ることはないという、妬み。そねみ。ひがみ。


いろいろな想いが渦巻き、憧れと、軽蔑と、嫉妬と、郷愁と、寂しさが、ないまぜになった、自分の心象の中にある、その世界。



複数の確かな筋からの情報が入っていましたが、この2年間のコロナ禍でも、そういったガストロノミーの世界――特に、ミシュラン3つ星クラスのレストラン――においては、相変わらずずっと満席が続いていたようです。不要不急の外出自粛も、なんのその。やっぱりそういう人たちにとっては、社会の情勢がどうであろうと、関係ないんだろうなあと、自分の欲求の追求よりも大事なものなんて、何もないんだろうなあと、私はずっと勝手に思っていました。


そうして、一人で勝手に怒りを溜め込んでいました。やっぱり、そういう人種なんだ!ああいう世界に入り浸っているような奴らは!と。


発散もできず、事実としての現場を目視確認にも行けず、意見を誰かと交換することもできず、適切な批判を誰かにしてもらうこともできず、怒りというのは歯止めなく、自分の中でだけ、業火のように渦巻き、燃え上がっていくものです。


これは、苦しすぎました。全く、なんの建設的な意味もない苦しみでした。



ところで、同時に、少しオヤっと気がつく、別の種類の情報も、わずかな一部から、入ってきました。それは、


「コロナ禍始まってから、たちの悪い客が増えた」



これは、何を意味するのか?



私が考えていた――私の心象の中で描かれていた――ガストロノミーレストランに「いつも入り浸っている」ような人たちは、十把一絡げに、たちが悪い。少なくとも、品がない。道徳的価値観的に、美しくない。みなステレオタイプに固定化されて、そういうイメージでした。


しかし、純粋に、冷静に、考えて直してみれば、そういうレストランに出入りしている人々のすべてが、そうであるなどというわけは、ないのです。


年に一度の記念日、あるいは一生に一度の記念日、勝負の日、感謝の日、そういう日に、清水の舞台から飛び降りるような覚悟で、世間で「最高峰」と言われるようなレストランを、決死の思いで、大変な労力を賭して、予約した。そして心躍らせて、緊張の面持ちで、でもそこで同席する人の笑顔が見たくて、期待して、初めて足を踏み入れた。


そういう人も、いるはずなのです。


もちろんそれでも、母体集団としては、必ず偏りはあります。普通に生活している人が、特に子育てに一生懸命奮闘中の世代の人が、一人あたりコース料理代金だけで数万円取られ、「ワインペアリング」代に数千円から万単位のお金を払い、さらにそれらに「サービス料」という名目で10〜15%もの上乗せをされ、それらすべてに消費税10%がかかるような有名レストランに行ってみよう、とは、なかなか一般的には発想しないはずです。


どれほど収入が高かろうと、これはもう、「お金があるかどうか」の問題では、ないのです。そういうものを求めるかどうか、という世界なのです。(ついでに言うと、それを「経費で落とせるかどうか」という問題でもあります。)


しかしそれでも、そういう人たちの全てが、私が先に言ったような下劣な世界の住人であるということは、ない。下劣な世界の住人というのは、ガストロノミーの世界界隈に、比較的高密度で、確かに存在するとしても、それでもあくまで、一部の、一握りだけのはずなのです。一般社会の中に存在する密度と比較したら異常な高さではあっても、それでも依然として、5割を超えるようなことは、ないはずなのです。



それが、



「コロナ禍始まってから、たちの悪い客が増えた」



というシェフたちの心証が意味するところなのではないか。


つまり、コロナ禍が始まって以来、不要不急の外出は控えましょう、という呼びかけに応じるような感覚を持っていた人たちはお客様として減り、そんなことは意に介さない、という人たちが客層として残り、「純化」されることとなって、割合が増した。



だとするならば、やはり、私が、ガストロノミーの世界を、そこに出入りしている人たちの全てまでをも含めて、一律一様に、「下劣な世界」扱いしてしまうのは、間違っている。



それは、局所を過度に一般化しすぎた、偏見。私の、認知の歪みに他ならないのです。


(中編に続く)


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