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頑固さが溶けていく瞬間…頑固なこだわりを、口にしたとき

さてブログ再開!と先日宣言して以来、初の投稿となります。


以前よりもっと、ふと思いついたことを日記のように、ライトに書いていけるように心がけたいと思います。そうでないと読む側にとってあまりに重すぎますし、書く側にとっても労力がかかりすぎます。読む方書く方ともに、持続しなければブログの意味もなくなってしまうのでしょう。


さて最近思ったこと、気づいたこと。

頑固だと自分で認識しているその頑固さが、溶けていく瞬間の感覚…


「こぶた通信」創刊の直前の7月3日に、SNS上で


「とんかつカンティーヌゆめみるこぶたは、なぜ『料理写真』を投稿しないのか?」


という記事を投稿したのですが、、、


その中では、いろいろ理由があって、当店では料理写真を、意図的に投稿しないようにしています、という趣旨のことを書きまして、


それをもって、Instagramをいわゆる「インスタ」という使い方をするのではなく、SNSマガジンとして(写真を主な目的としない)読み物にしていきます、と宣言し、


SNSマガジン「こぶた通信」創刊!


という運びとなりました。


しかし、その投稿をしたちょっとあとに、、、


不思議なことに、なんだか心の中の何かが、いつのまにかふっと軽くなっていたような感覚がありまして−−−


−−−軽くなった、というのは、具体的に言うと、そうとは自分でも自覚していなかったようなささいな潜在的「イライラ」の存在が、溶けて消えたような感覚なのですが−−−


それに気づいてから、くだんの投稿を読み返してみると、


「でも、写真で自らネタバレ投稿はしない!って、別にそんなに、頑としてこだわらなくちゃいけないようなところじゃ、なかったんじゃないか?…」


ふっと、ニュートラルな気持ちで、冷静にそう思えたのです。

「これめっちゃ美しい!うまそう!と自分で思える料理があるのなら、別に、見せてもいいんじゃない?」

というふうに…


思うに…


「イライラ」というのは、本人も気づかぬかたちで、いつの間にか心の中でたまっているもの。

露骨に具体的に自分で「イライラ」を自覚するレベルになっているのは、もしかしたらそうとうにイライラがたまっているということなのかもしれません。


自分で気づいていないような潜在意識の中にあるイライラが、自分の気づかぬところで「価値観」という形をとり、自分の思想を形成していく…


具体的な価値観から「イライラ」が生ずることもあれば、逆に、感覚的、本能的な小さなイライラから、「価値観」が生ずることもある…


哲学者のニーチェが「ルサンチマン」と呼んだ、心のはたらきです。


自分が信じる価値観が、正しいのか?ということは、必ずしも論理的な観点からだけでなく、そういう「感情が、論理や結論を、ねじまげている可能性はないか?」という観点からも、常に客観的に見直してみる必要がある…



そんなんでとりあえず、今回、意味があるかも、と気づいたことは、


自分が頑固に大事にしたいと思っているこだわりというのは、だいたいどこかが偏っていて、だからこそ一面においては意味があり、一面においては誰かに疎んじられることもありえて、


少し躊躇することもあるけれども、まああまり嫌われるとかいうことは恐れないで、


口に出してみる。

文字に書いてみる。

公開してみる。


というふうに、


吐き出してみると、一旦とはいえスッキリして、そのスッキリしているわずかな瞬間に、自分をニュートラルに見つめ直してみる、ということが、できたりする。


自分はこんなに頑固なんだ!これが、自分にとってはこんなに大事なことなんだ!ってことを、あえて公にしてみると、なぜか不思議と逆説的にですが、その頑固さに、ピシッとヒビが入ったりすることがあります。


そのヒビは、すぐに自己修復されて元に戻ってしまうこともあるけれど、何度かそういうことを繰り返していると、一回のヒビ割れがだんだん大きくなっていって、あるときそこからガラガラっと崩れて、そのまま溶けてなくなってしまうことがある。

そうすると、その中に残っていたのは、それほど頑固にガチガチなわけではない、でも大切で本当に大事なものだった。みたいなことを発見する。


そんなことが、あるのかもしれないなあ…

ということを、感じました。


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