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「カンティーヌ哲学」の前提にあった「驕り」

どうーーしても、「画像」でアピールしたくない…「映え(ばえ)」で集客したくない…


その頑な(かたくな)な私の「カンティーヌ哲学」は、ある種の驕り(おごり)でもありました。



まあ私の場合、いろいろなところに常に、驕りは見え隠れしているのですが。



昨年の7月3日に、InstagramとFacebookに投稿した「とんかつカンティーヌゆめみるこぶたは、なぜ料理写真を投稿しないのか」という「文章」を(SNSなのに)、最近、改めて読み返してみました。


その後、8月11日にブログで「頑固さが溶けていく瞬間…」という記事を公開して、このときには少し気づきつつ、変わりつつあったのだろう、ということは察せられるとしても…


それにしても、「料理写真を投稿しない」と当初主張していたその理由の論理は、


つまるところ、自分の驕りと思い上がりだったのだろうと、思うようになりました。



「自らの手で、写真でネタバレさせてしまうのではなく、店に来てくれて、その場を体験してくれて、初めてそこで目にした料理で、驚きを感じてほしい」……


これは、「お客さんが来てくれる店である」という前提があって初めて成り立つ言い分であることに、今更ながら気が付きました。

そう、たとえば、予約も取りづらいほどに、お客様が引きも切らぬ有名店、とか。



そもそも、店主が自ら標榜するように、


「レストラン」でもなく、

「ビストロ」でもなく、

「カフェ」でもなく、

「食堂」でもない、


今までどこにもなかった飲食店のカタチ、食事の体験、としての「カンティーヌ」という店のコンセプト、立ち位置や、


今までの「とんかつ屋」のあらゆる常識も固定観念も打ち破るような料理、


を主張するならば、


それを見せなければ、伝わるわけがない。わかるわけがない。抽象的で概念的な説明を、いくら文字をこらして繰り返してみても、しょせんは限界があるというか、むしろ、ほとんど伝わることはない。


結局、百聞は一見に若かずなのです。


この1年以上、さんざん、コンセプトを端的に伝えるキャッチフレーズやキーワードを考え、それをHPやチラシのデザインに組み込み、どうやったら、これがうまく、刺さる人にズバッと美しく刺さるか、という「マーケティング」を、ずっとずっとやってきましたが、


なんのことはない、「画像」で伝えるのが、一番伝わるのだ。「もはやとんかつ屋ではないとんかつ屋」という、そのコンセプトまで、含めて。


そして、お客さん自身が、それを、求めているのだ。小難しい能書きではなく、「おお、これはおいしそう!アガる!」と、テンションを上げてくれるものを。


そんな単純な結論に、ようやく最近になって、自分の中で、落ち着きました。


いったい、何がイヤで、それをしなかったのか。それを避け続けてきたのか。


そこにはもちろん、先に書いた私の「レストラン哲学」があったのですが、


その前提には、

「きっと、画像や写真をバン!とダイレクトに見せずとも、これくらいの『チラ見せ情報』『匂わせ説明』だけでも、ひとは興味を持ってくれるだろうし、期待をしてくれるだろうし、それをもとに店まで足を運んでくれるだろう」

という、


「驕り」と「思い上がり」があったのです。


私は、何者でもない。

店じたい、限られた人だけにしか知られていない。

何も知らない誰かが自分に興味を持つ要素など、本来、なにもない。


過去の経歴だとか、どこそこの星がいくつのレストラン出身だとか、


そういう「情報武装」をせず、どこの馬の骨とも知れない自分、という白紙の状態で店を始めてみて、いったい、自分が、どこまでやれるか。


この店の開業は、そしてアフターコロナの「カンティーヌ+」としてのリニューアルオープンは、その挑戦であったはずなのに、


自分の中に、勝手なうぬぼれだけは、しっかり大事に抱えていた。この膨大な情報社会の中で、自分ごときがちょろっと言ったことに人が興味を持ってくれることなどそうそうない、という客観視が、できていなかったのです。


そう、画像。写真。動画。

時代は「それ」であるし、そもそも、ヒトの関心は、そこから惹かれるのです。「視覚情報」から。


映え狙いだとか、時代迎合的だとか、そういう斜に構えた批判的な見方を必要以上にせず、


「おいしそうに思わせるもの、おいしそうに見えるもの、そして実際においしいと感じさせるもの」を自分で作っているという自負があるのなら、


それをまずは、見せてみろ!


と、自分に対して、思ったのです。


思い上がり→独立→自分の哲学の主張→うまくいかない→自己客観視→思い上がりの気づき→本当に大事なものは何かの気づき→思い上がり→・・・


これの繰り返しです。雇われの身であったときには経験したことのなかったサイクルです。独立するとは本当にシビアなことではありますが、しかし確実にやはり意味のあることだと思えます。


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