「日本一、文字の多い飲食店」を
標榜するとんかつカンティーヌの
Concepts
&
Philosophy
そのコンセプトと哲学。
美意識と世界観、
人生の価値観。
豊かさとは何か。
幸せとは何か。
そして、人間とは、なんなのか。
新しい飲食店の形「カンティーヌ」
当店は、2019年4月9日に個人事業としてオープンした、とんかつのお店なのに、従来のとんかつ屋とは全く異なる、新しいスタイルのとんかつ店の形…
「とんかつカンティーヌ」です。
一風変わった経歴のフレンチの料理人が考えた…今までになかった、全く新しい外食体験の場。それはただ単に、「おしゃれな内装のとんかつ店」などといった、上っ面のものではありません。
私には、並々ならぬ思いがありました。その思いのために、過去に手にした色々なものをなげうってでも、この店の開業のために、死に物狂いで邁進してきました。
そしてその思いは、開業し、年月を経て、まごうかたなき信念となりました。
地球のために、料理の仕事ができることは、もっとあるはず。
ここは、そのとんかつカンティーヌのコンセプトと哲学、存在の理由と意義について、私のありったけの思いを込めて、「日本一、文字の多い飲食店」として説明するページです。
目次
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「カンティーヌ」とは
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これからの社会に、必要とされる食のかたち。
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住宅街に立地しているからこその、「近所に、こんな店があってよかった!」の店。
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カンティーヌの食事とは
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提供したいのは、「とんかつ」ではなく「体験」。
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核は、「野菜」と「フランス料理」。
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「とんかつ」ではなくなった、とんかつ。
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店主は、何を目指しているのか
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事業理念「食を通じて、社会を豊かにする。世界の問題を、考える。」
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「ゆめみるこぶた」という店名に込められた意味
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「タバコに関するポリシー」について
いうべきと考えることを言います→リンク -
コンセプトのキーワード集…
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こんなときのための店でありたい
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店主は、何者なのか
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とんかつカンティーヌの歴史…
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「とんかつカンティーヌ」のアイデア誕生のお話…
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開業時(2019年)の、記念碑的「思い」
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コロナ禍中のとんかつカンティーヌ…
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カンティーヌから、カンティーヌ⁺(プラス)へ…
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たっぷり野菜&フレンチな「とんかつカンティーヌ
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第1章.「カンティーヌ」とは
1. これからの社会に、必要とされる食のかたち。
「カンティーヌ」とは、フランス語で「食堂」のこと。日本語の「食堂」という言葉ほど、ありふれた日常のニュアンスではなく、「フレンチレストラン」と表現するほど、敷居高くもない…
カフェのような居心地の中で、ちょっと特別な自分だけの時間が、ゆったりと流れる…
「空間はカフェ、使い方は食堂、体験はレストラン。」
というコンセプトを、この「カンティーヌ」という言葉に、込めました。
「カンティーヌ」とは、フランス語で「食堂」のこと。社会には、これが不足していると思っています。ちゃんとした食事には、人間にとって大切な、あらゆるものが含まれていると考えています。
とんかつカンティーヌが提供したいのは、我々の生活を、精神的、文化的に、豊かにするための、食体験。「飲み、食い、騒ぐ」という、快楽主義や享楽主義のための食では、ありません。
カンティーヌは、「使い方は食堂」という気軽さで利用できても、決して「定食屋」ではなく、「レストラン体験」を提供する店です。
いつもの日常の中に、ちょっとだけ上質な、非日常を。
あってほしかったのに、どこにもなかった、全く新しい「食のかたち」を、この社会の中に、提案する…それが、この「とんかつカンティーヌゆめみるこぶた」が生まれた理由です。
2. 住宅街に立地しているからこその、「近所に、こんな店があってよかった!」の店。
ひとつの店でありながら、日常の中の様々な異なる用途や場面に、対応できる店。
日常の生活の中には、いろいろな形の「食」の場面があります。
時間に余裕のあるお昼、自分だけのご褒美ランチ。
優雅にふんぱつ、大切な人との贅沢ランチ。
今夜はサクッと外で、でも軽すぎず、また重すぎない、健全な夕食。
たまには出かけてみたい、レストランでのディナー。
スーパーのお惣菜とは違う、料理店ならではの持ち帰りお料理で、外食気分なおうち食卓…
一人の同じ方であっても、日々、様々な場面と用途で、様々な「食」を必要としながら、我々は誰しも、生活しています。
とんかつカンティーヌは、そんな異なる「食」の動機、用途を想定した、それぞれの場面のために最適化された複数のメニュー形式を備えているという、独特の営業形態をとっています。
これは一般的に言って、実はとても珍しい飲食店の形です。
この町で暮らす方の、生活の中の様々な場面で、使ってもらえる。
こんな時にはこの店、こんな時にもこの店。
こんな店が、近くにあってよかった!と、思ってもらえること。
それが、とんかつカンティーヌが住宅街に店を構えた、その理由なのです。
3. カンティーヌの食事とは
3-1. 提供したいのは、「とんかつ」ではなく「体験」。
誰しもの日常の中に、「レストラン体験」という豊かさを。
「空間はカフェ、使い方は食堂、体験はレストラン。」
当店は、いわゆる「とんかつ屋」ではありません。日本人の誰もが知る形の「あの」とんかつに、千切りキャベツ、ご飯に味噌汁、というお食事ではありません。
そして、料理が一式お盆に載ってきてそれで終わり、という「定食」の形でもありません。当店は定食屋ではありません。スピード勝負「クイックめし」の、アンチテーゼたる店です。
いえ、しいて言うならば、新しい形の、もっと豊かな「定食」を、提案しようとしています。
お食事の始まりには、ささやかながらも、ちょっとだけ季節感を演出してくれる小さなアミューズ(突出し)。
そしてまずは一息つきながら、ゆったりお食事をお待ちいただくための、体に染み渡る自然素材のやさしく滋味深いスープ。
それから満を持して登場する、彩り鮮やかなメインのお料理。
お食事のあとにも、最後のお楽しみとして残されている、季節のお飲物のチョイス。
気分を少しずつ盛り上げ、最後にはリラックスしてお食事を終えてもらう…ゆっくり、ゆったりと非日常の感覚を楽しんでもらえるように、時間も一緒に味わっていただくことを目的とした、独自の料理提供の仕方をしています。
これは、いわゆる「コース料理」とも、異なっています。しっかりと腰を据えて臨む「コース料理」ほど重くなく、時間かからず、それでいていわゆる「定食」よりははるかにぜいたくな食事をしたという豊かな気分になれる、とんかつカンティーヌだけの、「レストラン未満の、食堂以上」な、オリジナルのお食事のスタイルです。
「フレンチレストランの楽しみを、あの豊かな気分を、この社会の中のたくさんの人に、知ってもらいたい。」
フランス料理の世界でずっと修業をしてきた私には、この強い思いがありました。
成金趣味や俗物趣味、フランスかぶれなどという意味の「フレンチレストラン」では、もちろんありません。
世間の喧騒から切り離された、あの静かで落ち着いた空間。ゆったり流れる時間。
「モノの違い」を実感させてくれる、器やお皿、調度品。
そして、プロの技術に裏打ちされた、日常食のおいしさとは「全く異なるおいしさ」の、料理。
それらすべてを、一貫し統一された「食体験」という付加価値として体感させてくれる、サービス(=「接客、もてなし」を総合的に意味するレストラン用語)。
こんな食事というものが、あるのか。
若いころ、初めてちゃんとしたフランス料理店で食事をしたときの感動を、今でも覚えています。入店し、案内され、席に着くと、サービスマンが、美しい身のこなしで、まず笑顔でグラスに水を注いでくれた、あのときの感覚。
「ああ、これから、レストランの食事が始まるんだ。」
そして丁寧に手渡された、その日のメニュー。衒い(てらい)も外連味(けれんみ)もないその所作から、一気に非日常の世界に引き込まれたことが、忘れられません。
こんな感覚が、誰しも、日常の中で味わえるような世の中であったら。
フレンチレストランという特別な場でなく、もっと生活の中に溶け込んだ、それでいて非日常を味わえる、こんな感覚を味わえる「場」が、社会の中に、もっとあったら。
きっと、この社会は、もっと豊かに、美しくなれるはずだ。
ずっと、そう考えてきたのです。
「肩肘張らないフランス料理」をコンセプトにしたフレンチレストランは、今や、けっこういろいろなところに存在しています。しかし、私の考えはそれとも、異なっています。
いくら「肩肘張らせないように」アットホームなフレンチレストランであっても、やはり「フランス料理」は「フランス料理」。「フレンチレストラン」は「フレンチレストラン」なのです。そこには、日本社会にはどうしても馴染み切れない、ハードルがある。敷居を取っ払うことは、やはりできないのです。その根強い心理的距離感を、フランス料理の世界で生きてくる中で、私は感じていました。
そう。
「フレンチレストラン」である必要はない。
そのようにカテゴリー化する必要はない。
重要なのは、あの「空間」と「時間」の作り方、そしてサービス(接客)の技術。それこそが、ガストロノミーフレンチレストランの世界で修業してきた者だけが知る、特異性、優位性をもった知見、つまり専門技術なんだ。
そうして生まれたのが、フランス料理の技術を用いて作る料理(とんかつ)を提供しながらも、本当の主役はこの「お食事体験そのもの」であるというコンセプトの、「とんかつカンティーヌ」なのです。
そして、名目としての料理の主役はとんかつということになっていますが、実際には、ランチメニュー、ディナーメニューともに、とんかつと全く関係のない、フレンチシェフだからこそ、と言える様々な料理も、ご気分に合わせて楽しんでいただけるよう、バリエーションをそろえてあります。
「空間はカフェ、使い方は食堂、体験はレストラン。」
空間はカフェみたいで、気分的には食堂使いできるのに、でもそこで得られる体験は、なんだかちょっとしたレストランにでも来たみたい…
「レストラン」と呼ぶほど敷居は高くないけど、かといって「食堂」「定食屋」とは明らかに違う…
そんな、「レストラン未満な、食堂以上。」がコンセプトの、私が考えたオリジナルな飲食店の形態です。
とんかつカンティーヌは、単なる「飲み食いの場」では、ありません。
さらに言えば、「おいしい」という、言ってみれば「感覚の快楽」だけを提供するための場でも、ありません。
よく言われるように、「すべては、お客様にとっての『おいしい』のために」とは、私は言いません。
店主がやらなければならない「すべて」は、もっともっと、たくさんあるのです。
ただ「おいしい」「うまい」だけでは、「享楽」の域を出ない、というのが、私の考えです。「享楽としてだけの美味」は、ときと場所によっては、単なる快楽欲求主義と紙一重です。
そこに、それ以上の付加価値が、意味が、欲しいのです。この店の店主は、何を美しいと考え、何を美しくないと考えているのか。その美観と倫理観と人生観の土台の上に成り立っている食事。その評価、賛否は、ひとによってもちろんさまざまに異なるはずです。しかし私は、それを感じさせる料理を、食事の場を、そしてそれに共感してくれる方に対しては、それをもって五感の全てに響かせるような感動を、作りたいのです。
足を踏み入れたその瞬間から、店を出るそのときまでの、すべての時間を、「トータルなお食事体験」という付加価値として提供する、そのすべてをもってひとつの「カンティーヌでの食事」として体感してもらう、そのことを目指している店なのです。
時季によって変化する店内の意匠、
季節の移ろいとともに、少しずつ変わってゆくお皿の上の表情や逸品料理、
その世界観を体現する音楽、
わざと余白に意味を持たせている、独特の時間の流れ…
「restaurant」(レストラン)という言葉の語源は、フランス語の「restaurer」(元に戻す、再び元気にさせる)という語から来ています。
いつもの社会の喧騒から一歩離れたい気分のとき、とんかつカンティーヌの食事が、お客様を「restaurer」させることができたら、それこそがこの上ない、私にとっての喜びです。
3-2. 核は、「野菜」と「フランス料理」。
「健全」で、「健康」で、「おいしい」ものを、提供したいのです。
たっぷり野菜と、クラシックなフランス料理の技術。それが、当店の全ての料理の、核となっています。どの料理にも、数えきれないくらいの種類の野菜と、素材の味を最大限に引き出すためのガストロノミーフレンチの技術が、惜しみなく使われています。
技術的な側面から見れば、当店の料理はまごうかたなき「フランス料理」。
そして、あくまで「ほどよい量」にとどめているとんかつのサイズに比して、ボリューム感で圧倒的に上回る「野菜」は、むしろ当店の料理における、事実上の主役です。
お客様からも、「野菜を食べたい時に来る店」と言われることがあります。店主である私自身も、「野菜を食べに来てもらうとんかつ店」を標榜しています。
全ての料理に添えられるグリーンサラダは、様々なルートから、高級フランス料理店並みの素材を仕入れて、高級フランス料理店と同じ技術を用いて作っています。特に秋冬や春先の、露地栽培、自然栽培の葉物野菜の状態が最も良くなる時季には、サラダを食べるためだけにでもぜひいらしてほしいくらいです。
ディナーメニュー「ル・ディネ・カンティーヌ」「季節のおまかせコース」とランチ「お昼のゆったりコース」のメインディッシュに付け合わせとして添えられる、種類豊富な「季節の焼き野菜」は、それぞれの旬素材の味を最も引き出すための、緻密で繊細なフランス料理の様々な火入れとアセゾネ(調味)の技術が駆使されています。
おいしい野菜をたくさん食べたいと思うことがあっても、普通の外食の場面では、満足のいくような野菜を食べられる機会はなかなかないと思います。実はおいしい野菜というのは、「原価」「技術」「手間」の全てを掛け合わせると、それだけ「高くつく(容易には提供できない)」ものなのです。このことは、ご自宅でいつもお料理をされている方であれば、誰でも感覚的にご存じのことであると思います。「おいしい野菜」は、希少価値がとても高いです。
だからこそ私は、「お金を払う価値がある!」と思ってもらえるような野菜を、たっぷりと提供したいのです。
普段たくさん摂取することが難しい「野菜」を、「フランス料理」として。ぜひ、当店でお楽しみください。
そして、とんかつという料理が、これほどまでに健全で、健康な料理になるんだということを、体感してみてください。
3-3. 「とんかつ」ではなくなった、とんかつ。
これこそは、「フレンチとんかつ」ではない、「とんかつフレンチ」という料理。
大きさ控えめ、むしろボリューム比率では野菜に負けるものの、その「存在感」と「満足感」は、充分すぎるほどに十二分。
その位置づけが、当店のとんかつです。
私は、食べたあとに胃もたれするような料理を、作りたくありません。お客様に、そのような思いはさせたくありません。そのための、健全で健康的な、最適サイズ。それでいて、本当においしいとんかつ。それを実現したいと考えました。
と、「とんかつ」という言葉を使いながら言うのもなんなのですが、とんかつカンティーヌのとんかつは、ある意味、とんかつではありません。「普通のとんかつの味ではない」とおっしゃるお客様も、しばしばいらっしゃいます。
当店のとんかつの調理方法は、普通のとんかつのそれとは、全く異なっています。
肉の下処理、肉のカット(形状)、塩の仕方、衣(パン粉)の付け方、火の入れ方(揚げ方)。
何もかもが違います。
私は全てを、フランス料理の技術と、フランス料理の考え方で作っています。食材の扱い方、食材の活かし方、そのために必要な、科学的根拠に基づく体系的な知識と調理技法。その結果としてできあがるのは、フランス料理として作られた、「『とんかつ』ではないとんかつ」となります。
私は、とんかつを、フランス料理という文脈における、「肉料理」と考えて作っています。
緻密な技術によって最大限に引き出す、素材が持つ本来の味。
しっかり肉を食べているという食べ応えと満足感を感じられる食感、そのために必要な形と厚み。
カリッとした食感のコントラストを演じ、しかもなお存在を主張しすぎない、薄くてしっかり揚がった衣とのバランス。
その全てを満たしつつ、胃もたれしない、健康的、適度な量。
肉のおいしさの相乗効果となる、たっぷりの付け合わせ野菜。
フランス料理の技術と、フランス料理の考え方に基づく、フランス料理のメインディッシュとしての「肉料理」の一皿なのです。
なんとなく「フランス料理チックな」という意味を表す「形容詞」としての「フレンチ」という言葉を頭に付けた、ナンチャッテな「フレンチとんかつ」では、ありません。
あくまで、「とんかつ」という料理、今まで「とんかつ」とされてきた料理、それを、「フランス料理」という意味を表す「名詞」である「フレンチ」に昇華させた料理…
「とんかつフレンチ」でありたいと考えて、私はとんかつを作っています。
第2章.店主は、何を目指しているのか
1. 事業理念「食を通じて、社会を豊かにする。世界の問題を、考える。」
「食を通じて、社会を豊かにする。世界の問題を、考える。」
これは、当店の事業理念です。
私には、思いがありました。それは、「食」は、この全世界にちらばり絡まり合う、あらゆる問題とつながっている、ということ…富の偏在、健康と飢餓、美意識と道徳、地政学と安全保障、生きとし生けるすべての生命と、地球そのものの尊厳。「食」の問題を考えることは、人類にとって、そして人類以外のあらゆる生命にとっての、世界の問題を考えることにつながっているのだ、という思いです。
そして、「世界」という、地球規模の最も巨視的な視座に立つ前に、
まず我々の生きる日本の社会の、「豊かさとは何か?」という、もっと身近なところにある問題に、「日常の食」の在り方というものが、密接に関わっている、という思いです。
この数十年の間、日本という国は、デフレ社会の道を、ただひたすらに走り続けてきました。ただ、「安いこと」に価値がある、というパラダイムの社会です。「『安いこと』に価値がある」…パラドキシカルで皮肉に満ちた、心が虚しくなるような命題です。
とはいえ、そこまで言うほど何もかもがデフレばかりだったとは認識されていない方も、いらっしゃるのかもしれません。あるカテゴリーのモノの物価は上がってきていたし、新しいテクノロジーやサービスは次々と登場していたし、合わせて消費そのものも総体としては拡大してきていたし、企業や業界によっては大きく成長してきたビジネスもたくさんある、と。
しかし…残念ながら、失礼なことを言うようですが、それは「社会において、『勝ち組』の側(がわ)にいる者の目」から見た評価のように、私は感じています。経済的にある一定程度以上の安定と安心を得ている方は、ご自身がその「成長できた世界」の中にいるがゆえに、それを体感することができる機会に、相対的に多く恵まれてきた、という構造になっているに過ぎないように、思えてならないのです。
私ももう、飲食業界の世界に足を踏み入れてから、だいぶ長い年月が経ちました。そして「食べるもの」「食べること」に関わる情報と言説に、常にアンテナを張っているという職業の立場から、この日本をずっと見てきました。
その結論として、「なんと、日本は貧しい国に、なってしまってきたのか…」と、感じざるを得ないのです。それは、個々人が経済的に余裕がなくなってきたとかいう意味ではなく、文化的、精神的な意味において、「貧しい」としか表現できないような、そんな切なくてわびしい感覚なのです。
デフレ社会とは、物価という尺度での客観的なデフレという意味を含むのはもちろんですが、それ以上に、「精神的なデフレ」に覆い尽くされてしまった社会、という閉塞感を感じています。精神そのものが、「よりよいもの、より美しいもの、より豊かなもの」を求めるのではなく、「より安いもの、よりお得なもの、よりコスパのよいもの」を志向しているのです。
私には、このデフレ社会の進行を導いてきたことの大きな因子のひとつが、「食」の世界にあるように、思えてなりません。なぜなら、「食(食べること、食べるもの)」という営みは、言うまでもなく我々の生活の中で、最も身近で毎日繰り返される、経済活動だからです。
毎日誰もが、お金を払って消費する、「食」。
その価格的な相場感、その品質的な相場感、そのふたつのバランス。全ての人が毎日必ず関わる、最小単位にして最頻の経済価値水準、これは、我々の生活の中におけるあらゆる価値観の中に、錨(いかり)を下ろすような役割を果たすもののように感じています。直接的な相関はなくとも、意識していることもなくとも、それは必ず、私たちの様々な価値判断の基準の中の、どこかに陰を落としている。直観にすぎないのですが、そう感じられてならないのです。なぜならこれこそが、家よりも、衣服よりも、「生きるために最も必要な」水準を、かたち作るからです。
皆様はご存じないと思います。この数十年、日本社会に生きる人々が皆、いかに安い食材を用い、いかに安い人件費で作られ、いかに安くお得に見えるかということを目的として作られた食べ物を、外食という限定的な意味ではなく、ありとあらゆる場所、ありとあらゆる場面で、食べさせられ続けてきたのか。そしてその相場、その水準を、「こんなものなんだろう」という「普通」のものとして、受け入れるようになってしまってきていたのか。
詳細に話すには長くなりすぎてしまいますし、他者を悪者にするような暴露話みたいになってしまってもよくはありません。それはここで目的とすることではありません。
ただひとつ言いたいのは、私は、そんなデフレ社会の日本をもう終わりにしたいということ、そのために、物価の問題だけでなく、「精神的に豊かな社会」を作っていかなければならないということ、そしてそれに、「食」が、「食の仕事」が、大きく関わることができる、関わっていかなければならない、と考えている、ということなのです。
とんかつカンティーヌゆめみるこぶたは、こんな小さな規模からですが、そのための一端の力となることを目指して、立ち上げた店なのです。
2. 「ゆめみるこぶた」という店名に込められた意味
「ゆめみるこぶた」…この店名に込められた意味は、開業してから5年以上もの間、公に語ったことはありませんでした。「なぜ、ゆめみるこぶたなんだろう?」と思われたことがある方も、そこそこいらっしゃるのかもしれません。
開業したそのときには…自分の中で込めた意味は置いておいて、お客様には、「とんかつだから、こぶたなのかな?」くらいに思っておいてもらえれば、それでいいかな、と思っていました。この名前に込めた意味は、当時は、外に対して語るものではなく、自分の内に向けた、自分に対する戒めなのだ、と考えていたからです。それに、あまりこれをお客様に対して語りすぎても、食欲を減退させることにつながるかもしれないという思いも、ありました。
しかし、開業から年月が経ち、この店が、この事業が、いったい何のためにこの社会に存在しているのか?そのことを、積極的に語るべきだと自分が考えるようになってきている、という変化を自覚したとき、この「ゆめみるこぶた」という店名に込めた意味も、やはり明らかにしよう、と考えるようになってきていました。
「こぶた」は、実は、とんかつという料理そのものとは、あまり関係していません。というより…もっと広く大きく、抽象的で象徴的な意味として、関係しています。
「こぶた」を語る前に、「豚」…豚という動物。
これを、私は、人間にとって「食糧」とされる、ありとあらゆる地球上の命の、「象徴」として、店名に用いているのです。
ご存じでしょうか…豚は、自然界に、野生の動物として、存在しません。豚は、太古の昔、人類が、猪という野生動物を、「食べるためのもの」として、家畜化したものです。自然の世界に、自然の摂理として紡がれている命の系譜としては存在せず、ただ「人間に食べられるためだけの存在」として、人間の手によって、「生産」されている命なのです。
牛も鶏も、ほかどんな家畜動物も、野生の種は存在します。豚だけが、正真正銘の「人間の食糧としてのためだけの種」です。こう聞くと、とてもショッキングですし、とても悲しく思えることかと思います。
しかし、それがあったがゆえに、人類は、貴重なタンパク源を、そして栄養だけでなく美味を、安定的に確保することができた。なくてはならない存在でしたし、それをただ単に残酷な悪だと考えることは、少なくとも現時点においては、正しくはないと思います。
とは言っても…「食糧としてのためだけの命」。悲しい響きです。
人類は、歴史の中の長い間、ごくごく本当に最近になるまで、ずっと飢餓に苦しんできました。人類の歴史は、飢餓との戦いの歴史なのです。豚の生命の尊厳を考えるほどの余裕は、長い間、なかったのです。またキリスト教文化圏の世界においては、その宗教的な宇宙観からも、豚はあらゆる生命の最下層の存在みたいなふうに、ずっと考えられてきた経緯というのもあります。そんなわけで、豚は、ただ食べられるためだけの存在であり続けてきました。
かわいそうなものです。豚は基本的には、愛玩動物でもありません。鶏の卵や、羊の毛や、牛の乳のような、産出する何かに需要があるわけでもありません。ただひたすらに、「肉」という存在でしかないのです。ある程度まで育ったら、殺され、バラバラにされる運命しかない命なのです。この地球上に、豚として生まれ落ちる生命の99.99%以上は、みなすべて、数か月だけ生きたのち、殺されるしかないのです。天寿を全うすることは、ない命なのです。
豚は本来、とても賢い動物とされています。好奇心が強く、あちこち動き、走り回り、いろいろなものに興味を示すそうです。教えれば「お手」くらいは覚える、という話を聞いたこともあります。きれい好きで、水たまりで身体を洗ったり、繊細で、ストレスに弱かったり、という特性もあります。
おぞましい話になるので詳細には書きませんが、そんな豚を、現代の人類は、最も効率よく増やし太らせるために、命を命とも思わないような環境で「生産」するシステムを確立し、拡大してきました。ここ数年でようやく、「家畜福祉」という概念が生まれ、拡がってきましたが、まだまだ一般的な市民意識の中には浸透していませんし、特に日本という国は、世界の中では相当に取り組みも意識レベルも遅れているとされています。
そんな、豚という動物…豚という、生命。
これが、私の中では、人間にとって食糧とされる地球上のありとあらゆる命の、「象徴」なのです。
こぶた…豚の赤ちゃんを、見たことがあるでしょうか。悶絶するほど、かわいいです。上に書いた通り、好奇心旺盛なので、走り回り、はしゃぎ回るのが大好きです。その行動を眺めていると、この命と、人間の子どもと、一体何が違うのか、と思ってしまうほど、愛おしい気持ちになります。
こぶただって、生まれたときは、きっと思っているはずだと、思うのです。人間のように概念としてではなくとも、観念を持ち合わせてはいなくとも…
「幸せに生きたい」と。
おなかいっぱいに食べ、遊び、走り、子孫を残したいと。それは、生まれてきた全ての生命に与えられた、幸福の希求という本能であり、尊厳であると思うのです。
私は、この人類によって構築された生産システムの中で流通してくる、豚の肉を調理し、料理にしています。そのことをしばしば考え、想像します。
それを悪だと断じることはできないと思います。全員が肉食をやめてベジタリアンになるべきだとも考えてはいません。
しかし…こうして屠(ほふ)られ続ける多大な命の犠牲の上に成り立っている、我々人類の生活。そのことの意味については、考えてみるべきだと思うのです。
意味を考えるということは…「この範囲までは、意味がある。しかしこれ以上には、意味がない。だから、意味のない消費やムダは、控えるようにしよう。」という思考の筋道の扉を開きます。意味もなく、無制限に消費や浪費、拡大再生産と経済発展を続けなければならない宿命など、本来はなかったのではないか、という、持続可能な考え方の地平に、自然に降り立つことができるのではないかと、私は考えるのです。
「どんなこぶたも、どんなあらゆる生き物も、幸せを夢見て生きている。」
これが、自分に対する、忘れてはならない戒めとして、私が店名に込めた意味なのです。
3. 「タバコに関するポリシー」について
<公共の場(飲食店)における喫煙という問題>
「社会を豊かにする」ために、自分の判断で決めることができる範囲の中で、これはまずまっさきに決断し、毅然として行動しなければならない問題、と考えていました。このことについて、ずっと長いこと、もう本当に、ずっとずっと前から、考え続けてきたのです。自分が店主として責任を負っている店として、この問題を、どうすべきなのか。
人からどう見られるか、何を言われるか…それに臆することなく、自分が「社会を豊かにするために」正しいと考えること、できると考えることのひとつひとつ、未来への一歩一歩を、この小さな店で、実践していこうと考えています。
別ページを設けて詳細に説明しておりますので、こちらをご参照ください。
4. 開業時(2019年)の、記念碑的「思い」
ここで一節、差しはさむ形で、ご紹介しておきたい文章があります。
2019年、開業したそのときに、とうとう独立したという自分の思いを、書き下ろしたものです。
実を言うと私自身、開業後何年もの間、半ば忘れていたくらいに放置していた文章だったのですが、改めて読み返してみたところ、とても、良いことを書いていたなあと、自分ながらに思いました。
何が良いと思ったかというと、他人(ひと)のことを何か言うのではなく、自分の思いを、ただまっすぐに、ひたむきに、前向きに発信し、そこになんの外連味(けれんみ)も感じさせない、すがすがしい文章に仕上がっていたからです。
それから数年。
新型コロナのパンデミックがあったり、戦争がいくつも勃発したり、世界レベルで、いろいろなことがありました。
そして私自身の卑近なレベルでも、たくさんの、小さかったりそれほど小さくはなかったりすることが、いろいろと起こりました。社会は変わり、私も変わってきました。
その自分の変化の中には、必ずしも良いものとばかりは言えないものもありました。自分で事業を始め、経営を続けるという経験の中で、自分の内においても、目を曇らされたこと、見方を歪められたこと、判断を偏らされたこと、そんなことが、いくつも起こりました。それはもしかしたら、自分で一切の責任を負って商売をする、経営をする、という、雇われの立場のときには向き合ったことのなかった、シビアすぎる現実と自分の信念との間の葛藤の中で、ぶつかり合いすり減らされる負荷とストレスと、折り合いと自己正当化の結果として気づかされた、否定しようのない、醜い自分の人格の一面だったのかもしれません。
そのことが悪いことだったのかというと、「悪いことだったのだ」と断罪してしまうほどには、自己否定的に卑下するものでもないのかもしれません。なぜならそうした経験をもまた通して、その自分を乗り越える形で、さらに新しく自分は更新されていくものだからです。その経験がなければ、そうした自分をメタ的に認識し、新たな視野の地平を切り拓くこともまたできなかった。何も変わっていない自分しか、存在していなかったはずなのです。生まれたばかりの純粋で無垢な子どもも、社会の中の汚いことを知り、大なり小なりの世間ずれをしていくことでしか、大人になっていくことはできないのでしょう。だから、今の自分をことさらに否定するような、ネガティブな見方はなるべくしないように努めようと思います。
とはいえ、その「開業したときに書き下ろした自分の思い」の文章を読み直したとき…そこに、ある面においては明らかに今の自分よりも素晴らしかった、当時の自分の姿勢を見ました。先に書いたように、それは他者のことをああだとかこうだとか言うのではなく、ただ自分が自分の足でとうとう立つことができたことの歓びと感動、その前向きな気持ちに満ち溢れた、未来に射す光だけを見ている文章だったからです。
そう。私には、思いがあった。その思いがあって、人の下で働くのではなく、独立し、自分の店を持とうと思った。自分の店を持つことで、この社会の中に、成したいと考えていることがあった。そういう夢を抱いていた。
そのことを、思い出させてくれる文章でした。
(以下原文ママ)
____________________
~2019年 開業時の思い~
この独立開業に至るまで、本当にいろいろなことがありました。この店には、私(店主)の半生に亘る思いの全てが詰め込まれています。
幼少期からの「食」に対する関心、
おいしいものを食べられるということの幸せの、
人間にとっての本源性への興味。
大学時代に没頭していた、人類の歴史を紡いできた哲学・思想の歴史、卒業後に足を踏み入れた、目を$マークのようにして利益を追求するビジネスのフィールド、
そしてそこから転身して、人生を賭けようと決意した、本物のプロの料理人の世界・・・
私は頑固で偏屈で思い込みが強く、権威におもねることを何よりも嫌う、決して万人受けしないタイプの人間ですが、それでも、自分が正しいと信じて突っ走ってきたこれまでの人生の結実の一段階として、このお店を通じて自分の哲学を形にすることができたことがうれしくてなりません。
コンセプトの全てに通底するのは、
”時代に対するクリティーク(批判)”
です。
「批判」という言葉は、日本語においてはネガティブなニュアンスがあり、「他人の批判ばかりする」などのように、良くない意味でつかわれることのほうが多いです。
しかし本来の、日本語の「批判」という単語に翻訳される以前のもともとの「クリティーク」という外来語は、決して他者を悪く言うことや欠点を論(あげつら)うという意味の言葉ではなく、客観的に分析をして、よりよくなることを目指すための建設的な批評・問題提起という意味であり、日本語の「批判」という言葉も、本来はこの意味であることが正しいはずです。
政治の世界で「野党の仕事は与党を批判すること」という言説がありますが、意味をはき違えて、非建設的な与党の揚げ足取りばかりにいそしんでいる一部の野党は、この意味で全く健全な批判者であるとは言えず、日本語の「批判」という言葉がとても浅薄に理解されていることの証左のように思えます。
時代は相変わらず混沌としています。
インターネットの登場によって「世界はすべてつながることができる」かのような夢が生まれ、それはスマートフォンとSNSの席巻によって、「誰もが瞬時にどこまででも手を取り合える」かのような、メリットだけを誇張した幻想にまで膨らみました。
しかし実際は、分断された価値観、細分化するグループ化と村社会化、匿名の暴力性、衝突する文化と歴史、自己以外への無関心、拡がるばかりの経済的・教育的・文化的格差など、世界と人類、国家と社会を取り巻く問題は今でも枚挙にいとまがありません。
自分が興味のある「情報」だけに恣意的・部分的にアクセスし、切り取り、興味のないものには触れることなく生活を営むことができる便利なツールが今や事実上の社会インフラとなったことと無関係ではないと考える立場を、私はとっています。
メリットがあるものには、ほとんどの場合デメリットも付随していますが、多くの場合、特にますます加速化するこの現代社会においては、
手っ取り早くメリットだけを優先して、その先に何が起こるかを予見しないままことを進めてしまうという趨勢が、ますます強まっているように思えてなりません。
「メリットも大きいけど、デメリットも大きい可能性があるから、すぐに飛びつかないで、よく考えてみよう」という、健全なクリティーク(批判)が欠如しているように思われるのです。
昔、私の好きだったMr.Childrenというミュージシャンの「終末のコンフィデンスソング」という歌の中に、次のような歌詞がありました。
さあ 油断して渡ろう
慢心して進もう
文明の恩恵の上を
たまに不吉な夢を見るんだよ
走っているのに 進まない
ひょっとしたら 実際に起きてることを
夢の中で知らせるメタファーかも
Mr.Childrenの桜井和寿さんは、ポップミュージックを通じて、社会の、世界の問題と向き合い、時に批判し、発信を続けています。
料理とは、「理(ことわり)を料る(はかる)」と書きます。食材と自然と生命の神秘が、そこにはあります。
太古の昔、人類が家族や仲間という文化的共同体を持つようになって以来の、「共に食事をする」という行為に込められた意味は、今でもそこに真実としてずっと秘められています。
そして現在、グローバルに交錯する需要と供給のネットワークの中に、絡めとられ、ひずみが生じ、しかしもはや抗うことのできなくなってしまった不均衡が蔓延する世界における、環境破壊、貧困、紛争など、多くの問題の背景に、「食」は関わっています。
人は、自然を、生命を食べなければ、生きていけません。
人は、物質的なモノをいくら手に入れても、決して満足感や幸福度が飽和することはない一方で、おいしいものを食べたという喜びと幸福感は、どんな時代でも、どんな地域でも、おそらく変化はありません。どんなに太古の昔でも、どんなに未開の原始社会でも、どんなに貧しい国でも、生まれたばかりの赤ちゃんでも、いまわの際を迎えようとしている人でも。
そして、人間だけでなく、あらゆる動物たちでも。
私は、料理を通じて、レストランという仕事を通じて、社会と、人類と、世界の問題と向き合い、戦っていくつもりです。それが、私が料理人になろうと決意した理由です。
とんかつカンティーヌゆめみるこぶたが、何がしか社会にとって意味あるものとなれるよう、毎日を一歩一歩歩んでいきます。
5. コンセプトのキーワード集
とんかつカンティーヌゆめみるこぶたの、重要な9つのキーワードです。
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「カンティーヌ」とは
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これからの社会に、必要とされる食のかたち。
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住宅街に立地しているからこその、「近所に、こんな店があってよかった!」の店。
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カンティーヌの食事とは
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提供したいのは、「とんかつ」ではなく「体験」。
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核は、「野菜」と「フランス料理」。
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「とんかつ」ではなくなった、とんかつ。
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店主は、何を目指しているのか
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事業理念「食を通じて、社会を豊かにする。世界の問題を、考える。」
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「ゆめみるこぶた」という店名に込められた意味
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「タバコに関するポリシー」について
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開業時(2019年)の、記念碑的「思い」
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コンセプトのキーワード集…
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こんなときのための店でありたい
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店主は、何者なのか
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とんかつカンティーヌの歴史…
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「とんかつカンティーヌ」のアイデア誕生のお話…
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コロナ禍中のとんかつカンティーヌ…
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カンティーヌから、カンティーヌ⁺(プラス)へ…
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たっぷり野菜&フレンチな「レストラン未満の、食堂以上。」とんかつカンティーヌゆめみるこぶた
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6. こんなときのための店でありたい
第1章「カンティーヌとは」の中で語ったように、とんかつカンティーヌゆめみるこぶたは、日常の中のさまざまな「食の場面」でご利用いただけるよう、それぞれの形に最適化された複数のメニューを持っているという、ありそうでなかなかない、珍しい店の形態をとっています。
ぜひメニューページとご一緒に、ご覧になってみてください。こんなとき、こんな近くに、こんな店があってよかった!と思っていただけることを目指しています。

「リモートワークが定着してくれて、すっかり自分のペースで仕事がしやすくなったけど、問題が3つあるんだよな…うまい昼メシ、ちょっとした気分転換、それに最近少したるんできた、この腹…
気分転換になって、おいしくて、健康的な料理が食べられる店…時間は多少融通がきくから、そんな店が近くにあってくれると、ほんとありがたいんだが…

「ダンナは出社、子どもは学校、私は在宅、という、今日のこの貴重な一人時間…
こんなときに、思いつきでも飛び込める、ちょっとゆったりした気分でランチできるお店が、あるといいのよね…
「平日休の仕事だと、買い物したいときなんかは街が混んでないから、ほんとにいいのよね!しかも、『社会のみんなが働いているときに、ひとりのんびり優雅にランチ』なんてぜいたく気分を味わうこともできるし…
ただ問題は、そんな気分を十分に満たしてくれるようなお店が、ないこと!どこもかしこも、『昼ってのは、とにかく安くて早いのがいいものなんだ』みたいなランチメニューばっかり…
もっと、私みたいな人のためのお店、どこかにないの!?」

「たまにはちょっといいもの食べたいとは思うけど、コロナ以降、夜にわざわざ外食したいって気分にも、あまりならなくなったわね…」
「それでいいんじゃないかな…?むしろ、健全な生活サイクルになった気もするし…あるいはさ、週末のランチに、少しリッチなとんかつとかは?」
「いいわね!それ、健全なアイデア!(笑)」

「あ、もしもし、お母さん?今度、せっかくたまにうちまで来るんだから、 お昼、ちょっと奮発して、外食しようよ!その日、ダンナ、いないし!」
「あら。いいのかねえ…でも、あんまりちゃんとしたお店に行くのも、気疲れするし、しゃれたものも、食べつけないから…」
「大丈夫!ちょうどいい、とんかつのお店があるのよ!カフェ気分で入れるし、胃もたれしないから!ちょっと若い気分になれるわよ!


「今週の週末…妻と娘は、表参道で買い物とランチの予定、とか…
私には、「なにか適当に、ちょっといいものでも、食べに行ったら」と…
ふふふ…
待っていたんだ…このときを…!」

「毎日の食事が、マンネリぎみ…もともと外食とかの習慣がなかった上に、すっかりリモート生活が定着しちゃったから…
たまにはちょっと気分よく、お酒なしで食事だけできる、ちゃんとしてる系の
ごはん屋さん、ないかな…」

「カンティーヌの3500円のとんかつ、だいぶしっかりした内容だったわね!私、あれだけで満足だったよ!」
「でもさ、卓上にあった『季節の逸品料理』、あれもおいしそうじゃなかった?腹いっぱいで、注文できなかったのが、なにげに残念だったけど…」
「私もそう思ってた!じゃあさ、次はライトディナープレートを食事にして、あの季節料理を楽しみに行こうよ!お酒もおいしかったし!」
「そうか!そうだね、うるさい居酒屋なんか行くより、絶対よさそうだ!」
「一緒に手作りの料理もだいぶ慣れたけど、たまにはやっぱり自分たちじゃ作れないもの、食べにいこうか!
高級なものじゃなくて、落ち着いてちゃんとした食事ができそうな…
あんまり「呑み」な雰囲気じゃないお店、といったら…
シーン 夜①
ランチの気軽さ、夜の満足。
「ライトディナープレート」

「俺ももう中堅どころだし…仲間連中と、飲み屋で飲み兼メシとか、卒業したいんだよな…
もっと落ち着いた…こっそり大事にしておきたい、とっておきの自分だけの店とかあったら…

「契約ゲット!
がんばった私には、一人でサクッと入ってもちょっとリッチなレストラン気分になれるあの店で、スパークリングね!」
シーン 夜②
日常の中に、
「上質な食堂」を。
「カンティーヌの夕食」

「コロナのおかげでダンナも家事をやるようにはなったけど、やっぱり毎日の料理は私の仕事よね…
ううー!今度、デザートつきで、カンティーヌでおごらせてやる!」

「なあ、今度、とんかつ食べ行こう!とんかつ!」
「え?脂っこいもの、最近食べられなくなってきた、って言ってたのに…それに、
夜の定食屋は、実質的に呑み屋みたいものだから、好きじゃないって、前から…」
「違うんだ!全然違う!あの店は!野菜を食べに行くんだ!レストラン気分で!」
「はぁ??」

「今夜の一人メシ…ラーメンじゃ一瞬で終わってしまうし…呑み屋はイヤなんだよなあ…チェーンの定食屋は安っぽいし…焼肉、ステーキもけっこういつものパターン…料理がうまいカウンター割烹とかがいいんだけど、予算5000円じゃ厳しい…野菜も最近摂ってないから、野菜いっぱい食いたいな…あと、やっぱり肉も少し欲しい…安酒は要らないから、うまい酒、一杯だけあるといいな…
そんな店って、ないのかね?オレが、わがままなのか?」

「そろそろ、誕生日だね…レストラン、どうしようか…?」
「そうね…こないだのあのお店、けっこう高級店だったけど…正直、私、ちょっと居心地悪くって…なんだかいかにも、ステータスが好きみたいな人たちの空間、って雰囲気、だったじゃない…?お料理も、きれいなアート作品を食べてるみたいで、おいしいのかどうか、なんだかよくわからなかったし…」
「俺たちが、もう、「現代のグルメ文化の潮流」みたいなものから、感覚的に、はずれてきたのかもね…。ちょっと旬の季節感を感じられて、ちょっと普通よりおいしくて、ちょっと特別な日の食事、という気分にさせてくれさえすれば、俺たちにとってはいいんだけど…」
「なあ………、 …こんど、結婚記念日だろ……、 …たまには、ちょっといいとこ、食事にでも行くか…」
「あら!どうしたのよ、突然?? ……ぷっ、いいとこのレストランにおめかしして、なんて、今さらあたしたちが?(笑)」
「いや、そんなんじゃないんだ……、 …ちょうどいい店があるって、聞いてな…普段着でいいらしい…どうだ?」
「………そりゃあ、どんなに今さらだって、うれしいわよ…」

シーン 夜③
「この日には…」
普段着の、特別体験。
「季節のおまかせコース」








